大島 幹央(よりひさ)  1975年2月生まれ

鍼灸師 と柔道整復師(整骨院の免許も所持してます)

福岡市東区香椎出身

高校を卒業して19才の頃オーストラリアへ。シドニーの空港で安宿が多いと聞いて、バスで降りた所がキングスクロスという繁華街。世界中から集まった若者が毎晩パーティー三昧。初めての海外は刺激が強め、楽しすぎて昼夜逆転、せっかくの南国の日差しも浴びず、毎晩酒を飲み朝まで踊るを繰り返す。宿は5人部屋で出入りが激しく、国籍も分からないが、皆やること同じで朝帰り。働きもせず夜遊びばかりしていたのでお金も尽き、働くため仕事が多いと聞いたゴールドコーストへ。ここでサーフィンにはまり、ようやく日差しを浴びるが夜遊びもやめられず、楽しすぎて今度は昼夜を問わずにパーティー三昧。勉強を全くしない為英語も喋れないどころか博多弁がきつ過ぎて日本人にも通じない。都会では日本人とばかり遊んでしまうため、これじゃあいかんと思い英語の勉強の為、都会を離れ田舎の島に行くことに。辿り着いたのがハートリーフで有名なハミルトン島。Kodakのカメラ屋さんに飛び込むと、仕事をくれ住む所も用意してくれた。仕事仲間も全員外国人で英語環境も手に入れることができ、グレートバリアリーフの海や自然を撮る為、世界中のカメラマンが集まり多種多様な人の生き方を見る事が出来た。オーストラリアには1年居て、帰国後すぐに芸人になる為東京に行き、片岡鶴太郎の内弟子になりましたが、オーストラリア時代とは正反対のストイックな生活で、毎日泣きそうでした。テレビは華やかな世界ですが、私生活は質素で地味。よくサッポロ一番を作ってくれて一緒に食べました。好きな食べ物は月見うどんと熱々のおでん。たまのデザートはタラミのゼリー。贅沢はしません。ただ日本中から名産品や銘酒が贈られてくるので、頂き物だけで毎晩竜宮城のようになっていました。当時は毎日絵を描いていて、右利きなのに左手で描くというストイックさで、味のある絵を生み出し、個展で全国を回り、機嫌のいい時はパンツ1枚でヒクソン・グレーシーのものまねをやってくれました。今はヨガをされていますが、日々の生活から自然に行き着かれたのだと思います。私も今は鍼灸師として、心と体の健康に携わる身となり、先々の道を歩むのが各々楽しみです。その後25才でニュージーランドに留学し、子供に英語の教育をと、韓国から家族で移住してきた教育熱心なご家庭が近所に沢山住んでおり、日本語も覚えさせたいと頼まれて、子供達に教えていました。日本に戻ってからは友人と横浜で英会話教室を立ち上げて運営していましたが、30才を機に沖縄に移住。大型船舶免許を取り、航海士となって10年程は船で日本全国や東アジアを中心に航海し、年間9ヵ月海の上3ヶ月は休暇という生活でしたので、休暇中は世界中を旅して回りました。40才になり宮崎に移住するとサッカー熱が再炎、サッカーばかりやっていたので40才以上の部の県代表として九州大会に出場したり、遠征でバルセロナに行ったり、サッカー三昧の至福の時でした。この頃から体の仕組みや東洋医学に興味を持ち、勉強していくうちに自己治癒力を生かした鍼灸の世界にのめりこみ、鍼灸師と柔道整復師の国家資格を取るため沖縄の学校に入学。ここで北京堂首里の伊集先生と出会いました。治療法は衝撃的で、太くて長い鍼を筋肉のコリにバシバシ入れ大の大人が悲鳴をあげて悶絶。うちは叫ぶの自由ですからと先生も慣れたもの。終わるとあんなに痛がっていたのに、次いつ空いてますかと皆さん予約を取って帰る。最今の痛くない優しい鍼とは真逆ですが、なかなか治らない方は深部の筋繊維が固くなってる方が多いので、細くて短い鍼では届かない。来る患者さんは色んな治療をされて上手くいかなかった方々が多く、「痛いが効果がある」「入れてほしかったのはここだった」「他じゃ物足りない」と皆さんおっしゃる。コリや痛みの原因は筋繊維が固くなり血流が悪くなってるので、深いところ悪いところにしっかりと鍼を入れ、血流を上げてほぐしてあげるのが北京堂浅野式の鍼治療。自己治癒力を最大限に生かした治療法です。この鍼治療を生まれ故郷の福岡に持ち帰り、痛みが取れず困ってる方を治す為、日々研鑽中です。